映像・広告クリエイター科

映像編集用語録

「このコーナーでは、映像編集の現場経験を踏まえ、思いつくままになるべく多くのことを書きしるしていきます」

プロフィール 1969年東北新社CM本部入社。CM、映画、ドキュメンタリー等の分野で編集者として活躍。
現在は映像編集講師、映像テクノアカデミアスーパーバイザーを兼務。著書に「つなぎ屋」「逆流」がある。

映像編集は

映像編集は

作る素材が同じでも料理人の腕次第で料理のうまさが違ってくるのと同様に、編集においても編集者の技術力、映像力で作品の完成度が大きく左右される。
そこで編集者に求められる要素には、編集ソフトの操作だけではなく映像編集技法に基づく技術力、数多くある素材の中から最高の表情や動きを選び抜く眼力、カットの初めと終わりを決める編集点の発見、画と画をつなぐことでできる間(ま)やリズムの取り方、そして、ドラマを生み出す構成力があり、感性を磨くことにある。
そこには、静止画の連続である映像に躍動感を呼び起こし、命を与えます。


映像制作で映像編集のポジションを言い表すなら

「映像制作プロセスの大きな流れは、どのジャンルでも企画、演出、撮影、編集、録音、完成となる。このプロセスにおいて、長く映像編集に携わっていると、他のスタッフの役割も良く見えるようになる。
例えば、映像編集と演出を双方向で見られるようになり、演出の仕事が分かり、演出への移行が可能になります。つまりは、映像編集の視点から企画、演出はもちろんですが、撮影、録音等の仕事も広く見渡せる。
このように、多くの映像制作セクションを扇が開いた状態で言い表すなら映像編集は要の位置にあり、重要なポジションを担っている、と言える。 映像制作で映像編集のポジションを言い表すなら

映像編集は

落語家の話に、人が息を吸い込むタイミングで思いっきり笑いの要素を吹き込み、息を吐き出すタイミングに呼応して笑いを溢れ出させる、ということを聞いたことがある。
歌舞伎役者が見えを切る間、切った後の間は見応えがあり、拍手が湧きあがる。
要するに"間"が悪ければ笑えない、"間"が悪ければ泣けない、間が悪ければ拍手は起こらない。
また長尺モノでも、長い"間"となる話の伏線を張っておいて一気に泣かせたり、笑わせたりすることがある。このように映像編集には、すべて"間"が大事になってくる。
映像編集は

「ページをめくる」

スクリーンやモニターに映る映像にはいろんな動きがある。
画面を横切る、放物線を描く、じっと佇んでいる人でも髪がなびいたり、瞼が閉じたりする。スチール写真やストップモーションをかけない限り、すべての映像は動いている。
この動く映像の編集点を見つけるやり方を、本のページをめくるカットで考えてみることにする。
ぴたっと閉じられている状態からめくり終わりまでつないだとする。これはページをめくる動きは分かりすぎるぐらい良く分かる。
ただ、映像は良く分かることが優先事項ではない。そこにリズム感、心地よさ、力強さがなくてはならない。では、どうするか。
一秒でページ(24コマ)をめくるカットを撮影したとする。そのめくり始めの動きを4~6コマを切る。
すると、このように途中からつないでもページをめくられる印象度には、何ら支障はなく、逆にリズムや心地良さが出てくる。この編集点の探り方は他のカットのいろんな動きにも当てはめることが出来る。

「ページをめくる」

画の頂点

「画の頂点」とは、ストレートパンチの手を伸ばしきった所、足蹴りで足を伸ばしきった所、ビールの飲むシーンでグラスを上げきった所、お辞儀をして頭を下げきった所、ボールが上昇して下降に入る寸前の所、笑顔が破顔しきった所など動きや表情の折り返し地点を指す。
ストレートパンチを画の頂点で相手の打たれた顔面に切り替えたら、ストレートの勢いをそのまま打たれる顔面のカットに渡すことが出来る。
ただ、これも、「画の頂点」だけを目安にして編集するわけではない、手を伸ばしきって戻すところまで使ったとすれば、次の場面は相手がすでに倒れているか、倒れる寸前のカットになるかだが、これも充分に迫力のある編集と言えるだろう。
常に映像編集は、前後の関連性を考えて一番ふさわしい編集点を探すことにある。 画の頂点

カットとカットの間に画がある

カットとカットの間に画がある

カットとカットの間に画があるわけはない、と思われるでしょうが、それが、あるんです。
たとえば、激しくカットとカットをつないだ時に生じる衝撃波によって見えないはずの画が見える場合があります。
あるいは静かなカット同士の編集点をギリギリにつめていくと、その間に実際には存在しない映像が浮かび上がってくるときがあります。

このように場面転換の手法を用いないで、1コマ、2コマを足すか、引くかを考えながら編集点を探ることはカット編集の大切な要素となります。(特にCM編集などショートバージョンにおいては)

ワンアクションつなぎ

編集技法の一つである「アクションつなぎ」は、一つのアクションを二つのカメラで同ポジションから寄り、引きで撮り、途中で切り替えることで迫力のある映像にすることである。引きを7、切り替えした寄りを3とし、7:3でつなぐとリズムが出る。
ここでは「ワンアクションつなぎ」を考えてみることにする。
同じ動作を、同じようなサイズで、違うポジションで撮影したとする。この動作の二つのアクションをそれぞれ頭から繰りかえすのではなく、動きの中間地点でつないで、二つのショットを一つの動きとしてワンアクションでスムーズに見せることにある。映画「シェーン」の酒場での拳銃を抜きあう決闘シーンは有名である。

ワンアクションつなぎ

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緊張感を高め、情感を深めるカットバック

カットバックを簡単に言うならば、カットを交互につなぐことにあるが、このポイントは必ずしもワンカットずつ交互に見せる必要はない。また時を同じくして違う場所の出来事を交互に見せる。この別々のシーンが何らかの関連性を持ちながら、緊張感を高め、情感を深め、ドラマ性を盛り上げる。さらには、時間の流れが重層的になり、より映画的なダイナミックな感覚が生まれる。
カットバック手法は、同じサイズ、同じ方向を重ねると冗漫になる。カットの長さやサイズの違い、徐々に数や規模が大きくなるなど変化をつけて、リズムを出し、ダイナミックな感覚を引き出すことが大切になる。

一秒前後の間(ま)にこだわるセリフつなぎ(ダイヤログ編集)

セリフとセリフの間「ま」はSEやBGMなどを除けば無音状態と言える。この一秒前後の短い音のない状態をいかに作り出し、どのようなリズムを出すかが重要になってくる。一般的には、セリフとセリフの間は1:3でつなぐとスムーズだと言われている。これは先行ショットのセリフ後からカット変わりまでを1とし、カット変わりから後続カットのセリフ頭までを3とするもの。よって、セリフ後からカット変わりまでを8フレームとしたとすれば、カット変わりからセリフ頭までを3倍の24フレームになり、計32フレームの間となる。この数字が、適度な間だといわれているが、会話のテンポによってこれより短くなったり、長くなったり、あるいは重なったりすることもある。

迫力が伝わるパワーカッテイング

短いカットをたたみかけることで、映画の中に物理的な現実を越えて、心理的な効果を発生させることがある。
映画「サイコ」(1960年、監督:アルフレッド・ヒッチコック)は、一分足らずの間に積み重ねられた短いカットが心理的に溶け合って連続的な体験感覚となり、ぞっとするような迫真力で襲ってくる。シャワーシーンは撮影に一週間も費やされ、70回もカメラアングルを変えてナイフを犠牲者の身体に一度も触れさせずに、14回も刺されたように見せかけ、恐怖をあおった。

生合成

最近では、「生合成」という言葉は死語になったように思われるが、あえて持ち出してみることにする。
1969年、映画「明日に向かって撃て!」のラストシーンで、銀行強盗の二人(ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード)が追いつめられて、百丁ほどの鉄砲が待ち構えている前に飛び出した所を、ストップモーションで終わるシーンは映画史上屈指の名場面として残る。このストップモーションのコマが、次第にズームバックして広い場面になる画像処理はどのようにして行われたのか、どうも「生合成」ではないだろうか、と想像するしかない。今日ではデジタルマットペイントで画を増やしていけば可能だが、当時のフイルム時代はオプチカルプリンター内で処理するしかないと思われる。それは、ストップモーションのコマを長く止めて切り出し、現像し、映写し、手書きで周りの画を増やし、撮影(ズームバック)し、オプチカルプリンターに戻すという「生合成」のプロセスを経たのではないか、と推察できる。これは、あくまで推察でしかないので、もし違うやり方だと思われる方は、是非、ご一報くだされば幸いです。
生合成

カメラ目線が来ないイマジナリーライン

イマジナリーラインは、カメラ前の空間を仕切る想像上の仕切り線であり、会話する(見詰め合う)男女の目線を結んだラインを呼ぶ。
イマジナリーラインの法則とは、イマジナリーライン同士の同一ゾーンから撮った映像同士は位置関係に矛盾は起きないが、イマジナリーラインを越えてカメラを切り返すと、方向に矛盾を起こすという法則です。この法則を守ることによって映画で二人が向き合って会話するシーンでは二人ともカメラ目線が来なく、目線が合わないことはなくなる。

カメラ目線が来ないイマジナリーライン

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モンタージュの実験

モンタージュ理論とは、ショット間の連続性、編集による律動感、時間的方向の変化を表す。モンタージュは映画ではなく、文学、詩、もっと広く解釈すれば、人間が何かと関わるときに働くと言って良い。
よく編集の本や映像で紹介されてはいるが、ここではあえてモンタージュの実験と称して、男の見つめるアップからそれぞれ違ったシュチエーションのカットをつないだとする。男のアップは同じカットをつないで、それぞれの別のカットにつなぐとそれぞれの別な意味が生じる。モンタージュが、カットとカットをつないだときに何らかの意味をもたらし、ドラマを生み出すということがこれで良く分かる。
モンタージュの実験

伝家の宝刀

カット編集でつながりがうまくいかないときなど、安易にO・L(オーバーラップ)をかけたり、つながりの良いカット同士を無理に場面転換(ワイプ)をして、変化をつけたり、あまり意味をなさないSM(ストップ モーション)をかけたりして、ただ単に目先をごまかすような技法は避けた方が良い。O・L一つにしても相当な計算を立てて行わなければ効果が生まれない。
伝家の宝刀

バネを絞りに絞って、解き放つ

ハイスピードの効果的な使い方を考えて見る。棒高跳びの選手が全力疾走で棒の先を突っ込み、棒を撓らせて舞い上がるシーンまでをノーマルで見せて、バーを越えるあたりをハイスピードに切り替える。つまりは、全力疾走から棒を撓らせるまではバネを絞りに絞っているイメージを出し、その力を一気にバーを越えるハイスピードに解き放つ感覚が高揚感をもたらす。
もちろん、長いハイスピードの連続は、戦争シーン、アクションシーンに効果を発揮しているが、同一シーンの中でスピードを変える効果的な使い方を考えることも映像編集においては大事な要素となる。
バネを絞りに絞って、解き放つ

単調なリズムを崩すことで、リズムが生まれる

映像編集者に大切な要素として求められる一つにリズムを作ることがある。せっかく盛り上がった映像が、画面が単調になることによって、退屈になり、感情移入が希薄になってしまうことがある。同じサイズ(特に引きサイズ)、同じ長さ、同じ向きのカットを積み重ねると、それが顕著になる。
単調なリズムをくずすやり方は、いろんなことが考えられる。
たとえば、極端な言い方をすれば、撮影では思いもかけなかったショットとか、とんでもない方向にPANしたNGカットとか、いかにも使いそうにないカットを挿入することでリズムを崩すことが考えられる。またフラッシュバック(半秒以下のカットを交互に使って場面転換をする)のように細かく刻むとか、長いカットに短いカットを叩き込んでインサートするとか、要は、主役を引き立てるために悪役を瞬間的に際立たせる要領でリズムを作り、画面に引き込む編集力を会得することが肝要となる。
単調なリズムを崩すことで、リズムが生まれる

同じボリューム感で画を並べたら、完成度は落ちる

どんな素晴らしい画でも、同じボリューム感で羅列したら、トータルイメージは落ちる。
例えば、同じ長さの羅列、同じサイズの羅列(アップ処理は別として考える)、同じ要素を含んでいるカットの羅列等をつなぐと冗漫になり、見る人を退屈にしてしまう。そこには、あえて短く悪い画を挿入してリズムを崩して、目先を変えることも大事な編集の手腕になる。そうすれば、他の素晴らしい画が、さらに素晴らしくなる。
(例:主役を引き立てるためには、悪役の役割が大事となる)
同じボリューム感で画を並べたら、完成度は落ちる

つなぎの常識を破ったジャンプカット

1959年フランス映画、ジャン・リュック・ゴダール監督の「勝手にしゃがれ」は、これまでの映画文法や常識を覆した映画史の分岐点とも言える、ヌーベルバーグの記念碑的作品になっている。
予想外の同サイズの場面をつないで、観ている人に一瞬ショックを与えて、映像がレコードの針とびのようにブツブツ飛んでいく「ジャンプカット」を多用しているからである。
映像編集者にとって、こんなつなぎをしたら先輩に怒られていたし、考えられなかった。それが、この主人公である、故ジャン=ポール・ベルモンドが警官に追われる衝動的な若者を演じて、見事な映像作品として完成されている。
映像編集の奥深さを思い知った映画でもあった。

つなぎの常識を破ったジャンプカット

きちんとしたモノが作れなければ、くずすこともできない

映像編集には、「型」「約束」がある。サイレント、モノクロ時代から大先輩が築き上げた独自ものがある。編集技法「アクションつなぎ」「セリフつなぎ」などにも見られる。これらを知ることは大事であることは言うまでもないが、映像編集は「創造の啓示」を与えてくれる表現を追求するものである限り、「約束」を破る。そこに新しい発見がある。ただし、偶然の発見にしろ、「型」「約束」を知った上での発見と、知らないで発見したのでは大きな違いがある。何の基盤もないひらめきによる発見は、常に糸の切れた凧のようにさまよい続ける。
または、1000本ノックを受けることによって、いろんなケースに対応できる応用力が備わることになる。さらには、おもちゃ箱をひっくりかえして自分だけの世界に浸って喜んでいるよりも、しっかり土台を組み、徐々に積み上げていくことが達成感を得られる。
きちんとしたモノが作れなければ、くずすこともできない

映像にさらなるインパクトが加わる音の醸し出す世界

音は見る人の生理に無意識に入り込み、映像世界への臨場感を高め、感情や心理に大きな影響を与える。時には、映像以上に見る人に大きな知覚情報を与え、イメージを喚起するファクターになる。 音楽の強さを表現する例としては--------、
砂浜でトレンチコートを肩にかけて歩く二枚目のシーンを考えて見る。
二枚目が恰好よく歩いているシーンにふさわしい音楽が流れている場合は一段と恰好良さが増すことになるが、同じ格好よく歩くシーンにコミカルな音楽をバックに流せば、とたんに三枚目になって見えるから不思議である。 これは映像に対していかに音楽が強いかが分かる。
効果音が力を発揮する場面は--------、
戦争映画、ギャング映画、西部劇等のアクション、あるいはホラー、SF、スリラー映画、と効果音は映画創りにおいて欠かせない画面の迫力を増す存在になっている。
MA(マルチ・オーデイオ)室でのダビング作業は--------、
映像作品の最後の完成品を仕上げる音の世界を作り上げる部屋がMA室であるが、音楽、ナレーション、効果音を映像に合わせて乗せる、あるいは重ねていく作業であり、こんなに作品の最終形を作り上げる楽しい現場はない。 映像編集は各カットに息吹を与え、光り輝かせる使命を負っているが、MAは作品全体に躍動感を醸し出し、より感動を呼び起こされてくれる。

創る上で、プロとアマの違いとは何だろう

映像作品を創る上で、プロとアマの違いはなんだろう?と考えることがある。
スタッフ編成、予算、香盤表、納期等には特に違いがあるとは思えない。
では、なんだろうか。それは、創るプロセスにおいて、いかに己の中に客観性を持てるかどうかではないだろうか。アマは、自分よがりで創ってしまいがちである。極端に言えば、自分だけの世界を作って自分だけが面白ければ良い、と思うようなところがある。だからと言って、創ることに執着心を燃やし、無我夢中でやることは悪いことではない。ただ、そこに見る人の側になって創れるかがプロとアマの差が出てくるのではないか。これは、難しいことだと容易に想像できる。それは、創ることに夢中になっているプロセスにおいて第三者の目、観客の目、を己の中に持つことは至難の業だからである。だが、この客観性を持って創り上げることこそがプロの仕事ではないだろうか。
創る上で、プロとアマの違いとは何だろう

映像編集者を殺すには刃物は要らない、

誰しも映像作品をうまく仕上げてやろう、と活き込んで作品に取り組むに違いないのだが、それがうまく仕上げて得意顔で待ち構えているところに"うまいけど、面白くない"なんて。 まるで作品が未完成で稚拙だと言われてしまったようなショックを味わうのは-------なぜだろう!
苦しみ、しんどい思いをし、頭が破裂しそうになるぐらい悩んでうまく創り上げたのに------と。
この面白さ、とは、単におもしろ、おかしく笑ってもらえるようないわゆるコミカルな作品を指して言っているのではないだろう。
また、これみよがしに面白いだろう、と強調しているドタバタ劇を言っていることでもないだろう。
ここにある面白さとは、見る人をドキドキさせることにあるのだろう。
どんな映像作品でも、見る人をドキドキさせる使命を負っている、と言って良いのかも知れない。そこには、多少の乱暴さ滲み出ていても良いし、荒削りでもよいのかもしれない。
そこにもプロとしての綿密な計算があっての話だが。
要は、見終わったときに、あの作品はうまく仕上げていた、というより面白かった、と言われた方が創り手冥利に尽きるということのようだ。

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最高の形は、どこかにある

どんな映像作品においても、最高の形はどこかにある。その形が最高であるかを決めるのは、どこかの誰かではなく自分自身だということ。これを決める眼力を身につけることが、映像力をさらに高めることに通じる。これは、そんなに簡単なことではないことを充分に承知して、あえて語録に載せている。
自分が創り上げた作品を自分でこれが最高の形だと言い切るには、相当な葛藤があっただろうし、創る苦しみを乗り越えなければならなかっただろう。
そして、その後は、これがはたして本当に最高の形なのだろうかと自問自答を繰り返すことになるだろう。いずれにしても最高の形はどこかにある。それは自分自身のいずれかにある。それを探し求めて邁進していくことが作品創り冥利に尽きるのではないだろうか。

最高の形は、どこかにある

ときには映像編集は

映像編集は、最高の表情やアクションを選び抜く目、編集点の決め所、リズム、間の取り方、ドラマを盛り上げる構成力が求められることは前にも述べている。
そして実際に何回も同じ作業を繰り返して編集をしているうちに表情、動き、リズム、間までもがイメージした像となって透けて見える時がある。
さらには、執拗にカットを選び、使用部分を決めていくうちに、人物カットはもちろん、モノや風景にいたってまで被写体の方から、このカット、この編集点にしてくれと訴えてくる時がある。そうなると、それぞれに、最高の表情は一つ、編集点は一点、リズム、間はこれだと絞られてくることになる。
そうすると、そこでは、光と影の独特の持つ映像を選び抜く眼力を磨くことによって、表情や動きまで透けてみえるまでになる。と同時に撮影素材から作品の意図する全体像が浮かび上がってくる。

ありきたりの映像を超えるためと称して、フイルム(ディスク)に焼き付けられる事象の工夫に人を狂わせる情念が入り込む。この麻薬に似た情念に酔いしれる快感(あるいは情念を冷静に見つめる感性)がモノ作りの根幹を成しているのかも知れない。
これほど、誰しも映像を創ることには夢中にさせるものがある、と例えを挙げて見た。

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映像編集・広告制作にご興味のあるみなさま

映像編集・広告を学ぶ学校なら映像テクノアカデミア

映像テクノアカデミアの映像・広告クリエイター科では、CMプランナーや映像編集・映像ディレクターのプロを目指す方のために、基礎から応用レベルまで現役のクリエイターが丁寧に指導いたします。また、東北新社グループでのアルバイトのご案内や、就職サポートも充実。実際の制作現場でCMのプランニングや映像編集が学べます。