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いろいろな経験が「自分の芝居」を創る

青山穣 ケンユウオフィス所属/1996年3月卒業


【主な出演作品】
外画:「トランス・フォーマー/ダークサイド・ムーン」(ダッチ)「HEROES/ヒーローズ」(ネイサン)「トンイ」(ハン内官)
アニメ:「宇宙兄弟」(茄子田シゲオ)「宇宙戦艦ヤマト2199」(ヴェルテ・タラン)「残響のテロル」(島田)

1996年卒業の青山さんは、映像テクノアカデミア(以下「アカデミア」と省略)の第1期生。
現在ケンユウオフィスに所属し、声優として第一線で活躍している役者さんです。
しかしながら、アカデミアの開校を知るまでは声優という仕事を知らなかったそうで、当然ながら声優などになろうとも思っていませんでした。それじゃ今の活躍は何?このような疑問が出てくるのは当然です。
この疑問を解明するため、青山さんの今までたどった道のり、演劇にたいする考え方、その他いろいろをアカデミアの録音スタジオでじっくり伺ってみました。

今日は青山さんにまつわる全てをお聞きしたくて、特別にインタビューをお願いいたしました。想像ですが、青山さんは演劇にまつわるいろいろなご経験をされてきていると思います。それを詳しくお話ください、よろしくお願いいたします。

お手柔らかにお願いします(笑)。

アカデミアの1期生ですよね、今は学生の数もたいへん多くなってしまいましたけど、当時は、そんなに多くはなかったと聞いています。今で言うプロクラスもなかったし、ですから、少なかっただけにアット・ホームな感じはかなりあったんじゃないですか?

今のアカデミアの雰囲気はよく分からないんですけど、私が入った当時の印象は、なんかものすごく熱気があったなーという感じですかね。なにせ開校したばっかりでしょう、授業の形がはっきりと出来上がっていないし、先生たちも手探り状態で、私たちと一緒に試行錯誤をしていたという印象が強いんです。
「授業、面白いか?ためになっている?」なんてよく聞かれましたから・・・・

それで、実際には面白かったですか?

面白いというよりも、スゴイ!と思いましたよ。だって学生のうちから現場に出していただいて、実際の仕事が出来たんですから。今思うと、当然、初歩的な仕事なんですけど、その頃の私たちにとっては、そりゃスゴイ!と言うよりほかないものでした。

アカデミアの開校当時からのコンセプトは、実践教育でした。実際の仕事をしながら腕を磨いてゆく・・・・・そう考えると、ごく普通のことじゃないですか?

いや・・・・、それは下積みの経験がない人の言葉じゃないんですか(笑)
駆け出しにとって、仕事が出来る、それもギャラをもらって仕事が出来るなんて、そんなすごいことはないんですよ。

フフフフ・・・よく分かりました。それにしてもどんな種類の仕事が来ましたか?

一番多かったのはCMかな・・・・とにかくオーディションが多かったですね。それに、あのころはCS局の開局の時期にあたっていたんですよ。だから番宣番組のナレーションもよくやりました。
繰り返しになりますけど、その頃、あんな風にして現場に出られたっていうことは、家で練習を何百回かさねることより、その重みはズーッとすごかったんです。ですからあの時の気持ちは忘れられません。

これは想像ですけど、青山さんの芝居の経験、相当長かったんじゃないですか、アカデミア以前ではギャラをもらった経験はなかったんですか?

ナイナイ、ありませんよ(笑)、あったとしてもおひねり程度でした。だから昔の舞台の仲間にビックリされますよ、声の仕事で食べられるなんて、想像もしていなかったって・・・・・もちろん私だって全く知らなかったんですけれどもネ(笑)。

このまま話が進むと、アカデミアだけで終わってしまいそうです。振り出しに戻して順序よくお聞きしてゆきたいと思います。
アカデミアの1期生は特に舞台経験者が多かったと聞いています、青山さんもそうですよね。いつごろから芝居に興味を持ち始めたんですか?

さかのぼれば小学生のころかな・・・・

ずいぶんさかのぼるんですね(笑)

今でもよく覚えているんですけど、「がんばれ!ベアーズ」なんかの洋画を見始めてから、映画に興味を持ってしまったんです。親に小遣いをもらっては映画館に行き始めましてね・・・・小学生ですから月に1回か2回なんですけど、その1回が朝の10時から夕方の6時や7時頃まで、1日中映画館にこもりっきりで観るんです、おんなじ映画を何回も何回も。

ハハハハ・・・小学生でしょう、マセすぎじゃないですか?それによく補導されなかったこと。

されなかったですね(笑)。
映画がかもし出す雰囲気といったら良いのか、映画全体が好きになって…
雑誌の「スクリーン」とか「ロードショー」なんかを読み出したのもこの頃ですよ。ですから、中学に入学したら絶対に映画研究会に入ろうと考えていました。

ホントに早熟すぎますよ、小学生から映画研究会なんて・・・・

ですかね(笑)・・・・・でもそう考えたんですよ。
でもネ、実際に中学に入ったら、残念なことにそんなサークルはありませんでした。仕方ないから、入ったのが演劇部!ベアーズの団体行動にあこがれたんですよ アハハハハ・・・・

ここら辺ですか、演劇に焦点が当てられ始めたのは?

そうとも言えないんです。「くそー、高校に入ったら、今度こそ映画研究会に」と、密かに考えていましたから・・・・・まだあきらめてはいなかったんですね。
でも、その高校にも映研が無かった、だから仕方なくまた演劇部(笑)。 ここら辺からですかね、本当にのめりこんで行ったのは。

のめり込んだというのは、何か具体的なきっかけでもあったからですか?

ありました(笑)、高校生活が本当に、演劇一色になってしまいましたから。
中学時代の演劇部は3,40人の部員でしたけど、全部女の子、男は私だけ。分かるでしょうその苦悩が(大笑)。

アハハハハ 部活にならないでしょう。

言えてますね、そうなんですよ。
芝居をすること自体は最高に楽しいんですけど、いかんせん男が一人だけという疎外感を意識することは、とても多かったような気がします。
ところが高校は男子校に入ったんです。だから逆に部員は男だけ。
中学の反動でか、これがほんとうに面白かったですね。
それと高校演劇の全国大会があって、それの出場権を獲得できたことも役者を目指す、とっても大きなきっかけになりました。

そんな大会があるんですか!(ビックリ)

この大会は、高校野球で甲子園に出るより難しいって言われているんです。
甲子園は、各県につき、少なくとも1校は出られるでしょう?
この演劇大会は各ブロックで1校だけ…たとえば私のいた高校は愛知県でしたから、中部地区に属しており、その中部6県、愛知県、岐阜県、三重県、福井県、石川県、富山県の中から、1校だけしか全国大会に出られないんです、たしか。
だから単純な比較ではあるんですけど、甲子園より狭き門になるわけです。

(ニヤニヤ)競争率はよく分かりましたが、稽古の方はかなりやったんですか?

やったも何も、今思い出しても相当過激な訓練で・・・・ですからこの頃には、芝居の魅力に完全に取り付かれていたと思います。
まず授業をさぼっても、病気になっても、夕方であろうが、夜であろうが部活だけは必ず出ていました。特にその高校演劇の大会のときの合宿訓練は徹夜です、夜通し何回通し稽古をやったか、限界を超えてまで稽古をやったっていう感じです。いわゆる千本ノック(笑)。
だから誰かが台詞をど忘れしても、代わりに誰かが覚えている、誰かが代わりにしゃべる、なにが起こっても怖くない、ノープロブレム、驚きでした。

指導は先生でしょう?相当過激ですね。

良く言えば熱心といえるんですけど、そんな言葉じゃ足りませんね、本当に過激でしたから(笑)。
だって・・・高校時代、一回、「劇団四季」のワークショップに行ったことがあるんです。そこで、台詞は頭に入っているんじゃダメ、腹に入らなきゃダメだといわれました。でも、こと台詞だけに関して言えば、私たちの部活では、すでにそんなレベルはとっくに通りすぎていたんです。腹に入る程度じゃダメ、寝てても寝言で台詞が出てこなきゃダメ、全身台詞にならないとダメだと教わりましたから・・・・過激すぎますよね(笑)。

演目は何だったんでしょう?

オリジナルです。ちょうど同期に優秀な部員がいて、彼が書いていました。

お話を聞いていると、なんだか小劇団が組めそうな感じですね。高校時代の様子はかなり良くわかりました。次のステップは何でしょう?

大学になります、学校は日大芸術学部の演劇学科です。
まず基本の理論も含めて、演劇にまつわる全てを学んでみたいと考えたんです。この頃だと思うんですよ、完全に役者の道を目指そうと考えたのは。ですからいわゆる演劇青年として、芝居にどっぷり漬かった毎日でした。
当時の仲間は今でも芝居を続けていますよ。いつか、また懐かしいメンバーで一緒に舞台をやりたいですね・・・・・

劇団結成はなかったんですか?(笑)

学生の身分でそれはないです(笑)、その点から言うと学校の決められたカリキュラムをこなしていました。ある意味では真面目な学生(笑)・・・・

アハハハハ 可笑しいですね、真面目な?演劇青年・・・・そうすると卒業してからのことに移らせてください。就職はしなかったんですよね、卒業してからどうされました?

かっこよく言えばロンドン留学。かっこ悪く言えば、大手の劇団全部に落っこちてしまって、行くところがなかった、というのが正しいかな(ニヤニヤ)・・・・・・
大学の先生からイギリスの演劇を勧められまして、誘われるがままに一度観劇に行ったらはまってしまって、はじめは数カ月のつもりが2~3年居ついてしまいました。

ロンドンではどんな演劇の活動をやっていたんですか、言葉の問題が出てくるでしょう?

はい、ここら辺から苦難の道が始まるんです。
演技訓練は、個人レッスンを受けて、芝居見学がほとんどだったんですけど、残りは精神的引きこもり(笑)・・・・・

そんなことを明かされると、どう反応してよいのか(笑)・・・・

エリザベス朝演劇の本場でしょう、今思うと人を迷わせる変な魔力があるんですね。あの異質でしかも高いレベルと、自分の芝居とを考え合わせると、大きな壁が出来てしまった感じと言えばよいのでしょうか。言葉のレベルじゃなくて、芝居や人間性において全てが違っていた、というような感じです。

英語は、ホームステイをしていたんで、徐々に覚えていって、最後はどうにかこうにか喋っていました。それに演技のレッスンでも、先生は生徒の語学の力はすぐ分かりますから、そのレベルに合わせて話してくれます。だからある種の引きこもりをしていたとしたら、それは言葉の問題じゃありません。やっぱり芝居の質なんですかね。

こういえば理解しやすいのか・・・・つまり、あの当時、私はイギリスばっかりを見て、あのパターンが理想だと考え過ぎてしまい、日本人に出来る芝居、日本人に合う芝居、それがどのようなものか想像ができなかったのかも知れません。だから壁だと思ってしまったのかも・・・・
これはいくらすごいと思ってあこがれても、文化、歴史、メンタリティがぜんぜん違うんですよ、そこの前提をまずしっかり見据えて、受け入れるような余裕がないとダメなんでしょうね。

とすると、精神的引きこもり状態は日本に帰ってくるまで、治らなかったでしょう・・・

かも知れません・・・・ロンドン時代の経験が自分にとって、意識の上でも、無意識の上でも、どのように影響を受けているかは今でも良く分からないんです。ものすごく影響を受けていることは確かなんです、でもそれが具体的に何なのか・・・・
あこがれの部分と背を向ける部分と両方あって、その影響を説明しろといっても到底無理です。
せっかく2~3年間もいたにも拘わらずですけど(笑)。

分かりました、ここは青山さんの”思い”に従って次に行きましょう(笑)。日本に帰ってきてからはどのような活動をやられていましたか?

学生時代から歌舞伎座でアルバイトをやっていたんです。
で、留学なんかで、ヨーロッパ演劇はかなり学んだので、今度はやはり日本の古典劇もちゃんと勉強せねばいかんなと思い、その歌舞伎座の仕事をまた続けていくことにしました。
そして同時に、これは恥ずかしいのであまり大きな声では言いたくないんですけど、でも言ってしまうと(笑)・・・・・自分で劇団、つまり小劇場を主宰していました。主演、演出、脚本、プロデュース、チラシ作り、劇場おさえ、稽古場おさえ、客集め、雑用、すべて私・・・・・・
体験した人はわかると思うんですけど、これ、ひとりでやるのはメチャメチャキツいんです。もちろんその時期はそれ以外にも、役者として、ほかの劇団の舞台の客演には、星の数ほど出ました。

青山さんのお話をいろいろお聞きしていると、どうしても声優と結びつかない、どこで、どのようなきっかけで、声優などになろうと考えたんですか?

そういう疑問は当然ですよね。じつは私も声優なんていう商売は知りませんでした。ところが、「歌舞伎座でのアルバイトもずいぶん長くなってきちゃったなあ、まずいなあ」と思っていたある時、とある人から勧められたんです。「青山は声に特徴があるから、声優に向いているかも」って。
アカデミア入学は確か30か31の時、とにかくそれまでは、そんな世界のことなんてゼンゼン知らなくて・・・・・・で、その人に声の仕事を勧められたまさにその日ですよ、バイト帰りの丸の内線の車内吊りで、アカデミアの広告を見てしまったんです(大笑)。

「見てしまった」なんて何か特別なような言い方じゃないですか・・・・

特別ですよ、私にとっては。声優はどうだ?と勧められたその日の帰りに、満員電車の地下鉄の車内で、声優学校の広告の前に押し出されるようにして、たまたま立ったんです。他にも広告は沢山あるのにですよ。それで舞台役者から方向が変わったんですから、特別と言わざるをえないんです。ユングです。

なるほど・・・・・

東北新社が経営する声優学校の開校、という意味のことが書かれていました。声優という商売は知らなくても、なぜか東北新社という名前は知っていましたから(笑)、なおさら目に留まったんでしょうね。

好きなことをしているとは言えですよ、三十路にもなっても食べられなくて、このまま芝居を続けていても良いんだろうかって、かなり悩んでいる最中でしたし、そりゃこの歳で、いまさら学校でも・・・とは思いましたよ。でも、結果的にはその時が大きなターニングポイントになっていますね。

それでは振り出しに戻って(大笑)、再びアカデミア生活についてお聞きいたします。
先ほど在学中から仕事の現場に出られた事、ギャラをもらえた事が大きかったと言われました。しかしながら、それはそれとして、もっと本質的なこと、たとえば芝居についてとか、仕事の取り組み方についてとか、いろいろ学ばれたと思うんです。そこらへんを具体的にお話いただけませんか。

本質的なこと・・・・・難しい質問です(笑)

直接的にお聞きしますけど、入学するまでに芝居の経験はいやというほど積まれていた、そうするとアカデミアで学ぶことは特別にはなかったと思うんです。あえて言えば声優としてマイク前の演技訓練くらいのもので・・・・特別に何かを教えられたということはありますか?

答えが少しはずれるかもしれませんが、私の経験で言うと、舞台って格闘技の世界とも言えるんです(笑)。
演出家と役者の戦い、役者同士、共演者との戦い、隙あらば相手を飲み込み、やっつけてやろうみたいな感じの世界です。そんな異文化を背負って、格闘家?としてギラついた目をして授業を受けると(笑)、当然ハズレ者になってしまう、要するにナマイキだということになるし、世間知らずだということになります。ま、実際ずいぶん叩かれました…(笑)

それをアカデミアは矯正して、もっと違う考え方があると教えてくれたんですね。舞台しか知らない人間を、社会に出ても問題ないよう教えて、訓練してくれた、とでも言ったら良いんでしょうか・・・・・

もう少し具体的に説明していただけませんか。

たとえば私は入学するまでは、ナレーションというものをやった事がなかったんです。舞台一本だったので、当たり前なんですけど・・・・そのためか、いまだにナレーションには迷っているところがあります。つまり自分の立ち位置、視点をどう取るべきか、そこに迷うんです。
でもCMを長年経験されてきたある演出の方からは、『消費者の目線』みたいなことを教えられました。あの時はビックリしましたヨ、それまで経験したこともなかった見方を教えられたんですから・・・・・・
当然ですよね、それ以前は舞台ばっかりでしたから『作品の中の登場人物の見方、考え方からくる目線』のようなことしか考えていなかったんです。
だから突然自分と社会、それも不特定多数の社会と繋がってしまい、自分が社会にさらされている、そんな感じを持ちました。いや、持たされたと言ったほうが良いでしょうか、それまでの狭いナロウな舞台の世界から、突然広い社会に引っ張り出されたような感じでした。

判ります。つまりおっしゃりたいことは、仕事をするということは社会的責任が生じる、それを教えられたということですか?

そこまで言ってしまうとどうなのか(笑)・・・・・・でも確実に言えることは、格闘技の世界とは別の世界、作品を完成して世の中に広く見てもらう仕事、つまり社会と結びついた世界を教えていただいたと思っています。
それから、今でもよく分からない、こんなことも経験しています。

ある大御所の吹替ディレクターの方が、妙な素材を持ってきたんです。あれは聾唖者が出てくる物語でした、その聾唖者に声を当ててみろ、というわけです。吹替もよく慣れていない生徒に、何もこんな高度なことをって思うのは当然なのですけど、やれというから必死でやりました。どうしてあんな素材を持ってこられたのか、想像するに、どれ位自分で工夫をして演技をするか、どんな役でもどのくらい熱心に取り組むか、どのくらい引き出しを持っているか、それを見たかったんでしょうね、これはあくまで想像ですけど・・・・
でも始めはディレクターの意図が分からなかったんです。やっていくうちに何となくそれはつかめてきて、こういう演出方法もあるのかと思いました。

舞台は演出の意図をくみとりながら練習が始まりますけど、吹替は今まで蓄えてきた自分の引き出しをどう演出にプレゼンするかで勝負は決まってきます。ですからいかに引き出しを、深く、多く持っていなければいけないか、共演者とのアンサンブルも含めて舞台とは別の社会性を学んだんでしょうね・・・・

卒業してから、そのディレクターの方にいきなりシリーズの主役をいただきました。いい思い出です(笑)。

いきなり主役ですか、出来すぎのお話ですね!(大笑) 
芝居の蓄積はあるけど、その蓄積をどのように出して社会に認めてもらうか、アカデミアはその訓練の場だった、そういうことですね。よく理解できました。少し質問を変えさせてください。
青山さんはいつの間にか悪役、それも単純な悪ではなくてクセのある悪役が多くなりました。なにか特別なきっかけはあったんですか?

それはないですね、自然にいつの間にかやらせてもらっています。私の演技の仕方がそのように出てしまうのかも知れません。

それでは、こういう聞き方をします。少し大きな役で、クセのある役が来たのはどんな作品ですか?

作品名は明かせないんですけど、海外のアニメでランドール・ボッグスの役。こう言えばすぐ分かってしまいますけど、木村絵理子さん(注1)の演出で私にとってはすごく面白い役でした。

注1: 木村絵理子・・・吹替ディレクター 東北新社・外画制作事業部演出部次長
                演出作品「ハリーポッター」全作品 「ライラの冒険・黄金の羅針盤」
                「崖の上のポニョ」「コクリコ坂から」 他多数

その様な悪役を演じていて、これは自分に合っている、やりやすいと思っていましたか?

思ったかどうかは分かりませんけど、芝居上の悪というのは、演じていて楽しいのはたしかですよ。
多くの人が認めていると思いますが、いわゆる正義の味方って面白みが少ないというか、大抵は性格に起伏がなく単調でしょ?(笑)。遊ぶことが出来なくて、自分のオリジナルな工夫もしにくい感じがしますよね?
悪って複雑でしょう、そして大概は最後に死なないといけない、その死に向かって演じてやろうというドラマチックな楽しさは必ずあります(笑)・・・・・

つまり、演じていて楽しいのは性格に幅のある役ということですね?

そういうことになるのでしょうか(笑)・・・・と言うよりもこう説明したほうが分かりやすいのかも知れません。
たとえば周りの人たちが、私について持たれている、あるイメージがあると思います、そこからかけ離れた役をやってみたいんです。
それが私にとって幅のある役作りになりますし、冒険になるし、可能性を広げることになります。

それはよく理解できます。可能性を広げることって役者の本能みたいなものでしょう(笑)。
でも、そうしますと質問がもう一つ出てきます。その可能性の先に、青山さんが理想とする演技、或いは役者はいるんでしょうか?

(ニヤニヤ)・・・よく、その様な質問というのは、あちこちで聞かれていますよね。でもこの種の理想って、それこそ芝居の本質としてシビアーに考えてゆくと、私なんかは、持てないんですよ。

素人の時だったら、ああなりたい、こうなりたいから始まるのは当たり前なんでしょうけど、実際に芝居の訓練を積み、その上で理想を持てということになると、これは『遥か遠くにいる自分』になってしまうんです。
オリヴィエやアル・パチーノやブランドを目標にするのは良いですよ。けど、どんなに頑張っても私はあのようにはなれないし、逆に、ここが一番大切なんですが、どんなに努力しても、彼らは絶対私にはなれない・・・・・これは冗談ですけど(大笑)!

アハハハハ この部分カットしておきましょうか(笑)

残しておいてください(大笑)・・・・・・とにかく大事なことは、自分の肉体に尋ねよ、自分に戻れ、役者はその勝負だと思っています。

大事なことは、おおよそお聞きする事が出来たような気がします。最後の質問に移りたいと思います。このようなインタビューには恒例なのですけど、最後にアカデミアの後輩たちに一言おっしゃっていただけませんか(笑)。

この質問は覚悟してきたんです、絶対に聞かれるだろうって(笑)・・・・いろいろ考えたんですけど、結論は誰もが言うような平凡なことになってしまってつまらないですから、ちょっとまわりくどくお話しします。

役者にとって、仕事に取り掛かるための心構えは、渡された台本を読み込む、与えられた自分の役の背景をしっかり捕まえる。このようなことはしごく当たり前のことです。

つぎにその役をどう自分の力、つまり肉体で演じきるか、自分をどのように役として表せるか、これが勝負になるわけですけど、そこで大切なのはやはり、いろいろな意味で、如何に自分というものを深い、魅力ある存在に鍛えておくか、ということなんじゃないかなと思います。
そしてその自分というものを、いかに捕まえておくか。自分を最後まで捕まえきれていれば大失敗はしないような気がします。

私も経験があるのですけど、新人のときはダメを出されると頭に血が上ってしまい、自分を失って、自分の演技が出来なくなります。それは自分も、役も、失ってしまうことも意味するんです。
つまり・・・・ほら、作品に対するアプローチは人それぞれでいろいろあるでしょう。作品の捉え方で紳士にもなったり、紳士面をした悪人にもなったり色々です。
また相手役によっても演技は変わるでしょう。でもね、どんな時でもその役、つまり自分自身をしっかりと捕まえておかなければ、深い演技は成り立たないと思うんです。

そしてさらに大事なのは、その表現者たる自分が、いかに魅力ある人間存在でいられるか、なんじゃないでしょうか。
これは意識してすぐできるものじゃありません。自分のこころの奥底、無意識のレベルにいたるまでの話ですから、日常のたえまない訓練からしか出来ないでしょう。

ですからこの部分をどうするか・・・・
演技訓練は勿論なのですけど、私はね、できるだけ回り道をした方がいい、いろいろな場所や人を見たほうがいい、そしていろいろな経験をつむべきじゃないかな思います。

私もかつて人生の先が見えないときには随分へこみました。仮に歌舞伎座でアルバイトしている頃の私がね、今の私のこんな言葉を聞いたとしたら、何も思わなかったかも知れませんし、お前は運よくプロになれたから、上から目線で訓示をたれているんだと考えたかも知れません。

でもそんなことは置いといて、今現在、先が見えないで、不安に揺れ動いたり、悩んだりしている後輩たちはきっといると思います、そんな後輩たちには、届かない言葉でも良いから、言ってあげたほうが良いと思いますので何度でも言おうと思って今日は来たんです。だから言います(笑)!

続けてください(笑)・・・・・

若い人たち、あまりにも社会や物事を知らなさすぎるでしょう?・・・・
ともかく最短距離で一人前になろうとするから、困ったもんだと思いますヨ。そりゃ最短でデビューする人もいるでしょう、それはそれで結構だと思います。でもその人がどれだけ長く生き延びられるのでしょう?若いうちから、声優の訓練だけしてデビューする、それで自分の引き出しは枯れないのか、長続きするのか、私はそこらへんはシビアに見ていておいたほうがいいと考えているんです。
プロになるにあたって、デビューが遅すぎるなんていうことは決してないんです。
訓練を積め、色々な経験をせよ、世界を見て来い、ぜひこれは言いたいと思います。

熱いメッセージ、有難うございました。今日は長時間にわたって質問に答えていただき、感謝しています。

インタビューには載せられなかったのですが、最後の方で青山さんが何度も繰り返した言葉があります。

「食えないで、悩んでいたら、最後の偶然でアカデミアが見つかったんです。色々な所の門をたたいたけど、全部入れてくれませんでした。僕を受け入れてくれたのは、日大とアカデミアだけ、だから力を蓄えておけば、どこかで道は最後に開けるんです」と。

経験を積め、回り道をしろ、このようなことは役者なら誰でも言うことなのかもしれません。でも青山さんの言葉は、実際に回り道をした自分の体験から出て来ており、その体験を後輩に伝えたくて、いろいろな言葉を尽したのでした。その熱心な姿が印象的なインタビューでした。

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